2007年8月に発売された、
懐かしい玉電の姿が収められたDVDを取扱中!

渋谷・世田谷を玉電が走っていたあの頃。
混雑する大山街道を窮屈そうに。
時には専用軌道を悠々と。
多摩川で水遊びした後、海水パンツを窓から出し乾かしながら乗った“玉電”。
ガタゴトと渋谷へ向かう時、子ども心に未来への光を感じた“玉電”。
沿線の風景とともに、「玉電の記憶」は様々な形で受け継がれています。
今回荻原二郎氏秘蔵の8mmフィルムを全編公開。
その他、現在の世田谷線車両や玉電ゆかりの方のインタビューで綴る「懐かしの玉電」。
玉電が生まれたのは明治40年(1907)。

仕様:約40分間 カラー映像
価格:3,500円(税込)
※送料は別途申し受けます。

+++玉電DVD「懐かしの玉電」映像内容+++
□カラー8mm映像(昭和44年 撮影:荻原二郎氏)
玉川本線(渋谷→大橋車庫→三軒茶屋→用賀→二子玉川)
砧線(二子玉川→中耕地→吉沢→砧本村)
玉電の主なる形式 デハ40形、60形、70形、80形、200形、150形〜さようなら花電車
□東急世田谷線
既に引退した旧型車
現在活躍する300形
世田谷線上町車庫の様子
□玉電の想い出
「散水車」「消防電車(朱色電車)」荻原二郎氏
「新町から見えた駒沢給水塔」「玉電開業記念絵葉書」関田克孝氏
「鎖電車」「昭和25年頃の下高井戸駅」「七軒町駅」芹沢政一氏
渋谷・世田谷を玉電が走っていたあの頃。
混雑する大山街道を窮屈そうに。
時には専用軌道を悠々と。
多摩川で水遊びした後、海水パンツを窓から出し乾かしながら乗った“玉電”。
ガタゴトと渋谷へ向かう時、子ども心に未来への光を感じた“玉電”。
沿線の風景とともに、「玉電の記憶」は様々な形で受け継がれています。
今回荻原二郎氏秘蔵の8mmフィルムを全編公開。その他、現在の世田谷線車両や玉電ゆかりの方のインタビューで綴る「懐かしの玉電」。
玉電が生まれたのは明治40年(1907)。
それから100年目の2007年、多くの方々のご協力のもとこの映像が完成しました。
制作/玉電100周年記念イベント実行委員会
協力/東急電鉄株式会社 財団法人東急弘潤会
監修/関田克孝 企画/中山雅夫
制作協力/クロスメディア
販売/NPO法人まちこらぼ
複製不可(コピーガード入り)  レンタル禁止

●玉電の歴史
世田谷に初めて鉄道が通ったのは、今から一世紀も昔、明治40年のことでした。
大山街道(国道246号線)上を、玉川電気鉄道の手によって、電車が通りました。
当初開通したのは、道玄坂〜三軒茶屋間だけでしたが、同年中には渋谷から玉川(現:二子玉川)までの全線が開通し、 大山街道を往来する旅人や沿線住民の足としての役割とともに、多摩川で採取された砂利を都心に運ぶ目的も果たしました。
それまで鉄道が走っていなかった世田谷は、玉電の開通によって、ようやく文明開化を迎え、 玉電の手によって電気が引かれ、沿線の発展に貢献しました。また、玉川は行楽地として注目され、
明治42年には玉川遊園地(のちの二子玉川園)が玉電の手によって開設され、乗客の誘致活動も積極的に行われました。
大正9年、都心でのコンクリート需要の増加に伴い、輸送力増強と都心への乗り入れが必要となり、全線の複線化(完成は大正12年)、 軌道幅を1067mmから東京市電(現:都電)と同じ1372mmへの改軌し、車両を全て入れ替えるとともに、貨物車両の市電への乗り入れが開始されました。
続いて、大正13年には渋谷〜天現時橋間と、砂利採取拠点へ直接乗り入れる砧線を、翌14年には、現在も世田谷線として残る三軒茶屋〜下高井戸間を、 更には昭和2年、渋谷橋〜中目黒間、後に田園都市線の一部となる玉川〜溝ノ口間を開通させました。
こうして世田谷線の発展に貢献し、路線網を拡大させていった玉川電気鉄道ですが、昭和13年には東急の前身、 東京横浜鉄道に合併され、いわゆる大東急の一部となり、玉電の名前は正式には姿を消しました。
大東急の一部となってからの「玉電」は、玉川〜溝ノ口は改軌のうえ、大井町線(現:田園都市線)に編入、 渋谷〜天現寺橋・中目黒間は東京市へ譲渡され、渋谷〜二子玉川園・下高井戸間の玉川線と、 二子玉川園〜砧本村間の砧線の全長16.4kmの路線で営業を続けました。
戦後も、沿線の気軽な足として、愛されてきた玉電でしたが、昭和30年代に突入すると、 モータリゼーションの発達に伴って国道246号線を走る自動車が爆発的に増え、オリンピック開催による道幅拡張の甲斐もなく、 自動車に行く手を阻まれて定時運行ができない状態で、ドライバーなどからは「ジャマ電」などと罵られるようになってしまいました。
その頃、国道246号線の上を首都高速道路を通し、地下には都心と多摩田園都市とを結ぶ地下鉄を作る計画が浮上し、 これらをきっかけに玉電は廃止の道へと向かうこととなりました。
そして、ついに昭和44年、専用軌道であり、代替バスを運行できる平行道路がなく、廃止を免れた三軒茶屋〜下高井戸間を除いて、 道路の上を走る渋谷〜二子玉川園間の玉川線と砧線が廃止となり、国道246号線上を走る路面電車が姿を消しました。
廃止となる最後の3日間には、「さようなら玉電」と書かれた花電車が運行され、玉電の沿道には、別れを惜しみやってきた沢山の人々で人垣ができたと言います。
残された三軒茶屋〜下高井戸間は、世田谷線と名前を変え、車両の色も今までのクリームと緑のツートンから緑一色とし、車庫を大橋から上町へと移し、 新たなスタートを切りました。
一方、渋谷〜二子玉川園間は、昭和52年に新玉川線として生まれ変わり、昭和53年には営団地下鉄半蔵門線との相互直通運転も開始され、 都心から渋谷を経由し、国道246号線の地下を二子玉川園まで通り、田園都市線に直通して多摩田園都市を一直線で結ぶ大動脈となっています。
なお、更に平成15年には半蔵門線は東武鉄道との相互直通運転が開始され、埼玉県の南栗橋と神奈川県の中央林間まで、 1都2県をまたぐ大路線網に発展を遂げています。
(引用:Webサイトがんばれぼくらの世田谷線より)

二子橋を走る玉電。昭和10年頃。

「ペコちゃん」と呼ばれ親しまれた200形電車。

玉川線廃止時に運行された花電車に群がる人々。